パーン!
「面あり!!」
弾かれたように勢いよく上がった赤旗が、冬乃の視界の端に映り、冬乃は湧き起こる歓声のなか竹刀を引いた。
”女子個人戦の部、Adrian Cheng 全日本二年連続優勝”
この広い大会場において、冬乃の名とその肩書きを知らない者はいない。
そして今回、
「やったあ冬乃!!三年連続優勝!すごすぎ!!」
応援に駆けつけていた千秋が抱きついた。
「行ってきな」
真弓が表彰台を指して、冬乃の肩を叩いた。
盛大な拍手の波にひかれるように、冬乃はトロフィを抱えて台をゆっくりと降りてゆく。
───初めて竹刀を握った幼い日のことを思い出していた。
(あの頃は、まだ信じてたんだよね・・)
いつか彼に逢えることを。本気で。
その時のために、始めた剣道。
それから九年間、冬乃は着実に上達した。
上達とともに、冬乃は大人になってゆき、現実を知った。
所詮叶わぬ願い。
想いは、だが、憧憬から恋へと。つのるばかりだった。
「これで閉会式を終了します。一同、礼」
一瞬のち、会場内は俄かに湧いた。 「冬乃!!」
千秋と真弓が駆け寄る。そのなかに母と義父の姿は勿論、無い。
「改めておめでと!!」
今いちばん逢いたい人も、勿論いるわけがなく。
「・・逢いたい」
「イタイって、どっか打ったの?!」
周りが騒がしいせいでよく聞き取れなかった千秋が、驚いて冬乃の肩を掴んだ。
「え?」
当惑した面持ちで覗き込む千秋と真弓を、ふと冬乃は、我に返って見つめ、
「うん、・・」
(そういえば、確かに)
「痛い・・」
「どこ?!」
冬乃は首を振ると押し黙った。
(なんだろう、この痛み・・)
「冬乃、マジ大丈夫なの?」
再び首を振る。
「誰か呼ぶ?」
「頭が・・・」
「頭?どのへん?!」
真弓が瞬時に反応して、冬乃の頭に手をやった。
「何かに引っぱられてるような、カンジなんだけど、」
(ぼうっとする・・)
「引っぱられてる?」
千秋と真弓は顔を見合わせた。
「医務室に行こう。歩ける?」
「うん、・・」
(よく前が見えない・・・これは何?・・
・・・霧?)
「冬乃?冬乃、大丈夫?!」
「冬乃!!」
遠くで、千秋たちの叫ぶ声が聞こえる。
薄れてゆく意識のなかで、その声もやがて深い霧の壁に徐々に閉ざされていった。
「・・何も持ってませんでしたよ」
(─────畳のにおい)
その独特な香に、冬乃は、すん、と小鼻を動かした。
(ここは・・)
「と、気がついたようですよ」
ゆっくりと目を開けた冬乃を驚くほど間近で、色黒の顔がのぞきこんでいる。
(きれいな瞳・・・)
冬乃は幻でも見るようにぼんやりと眺めながら、
ふと彼の服装に目がいった。
自分と同じく稽古着らしき服を着ているところをみると、会場内の付属部屋がどこか・・。
そういえばもう痛みも、変な霧もない。
ふらり、と身を起した冬乃は。だが開け放たれた障子の向こうを、思わず凝視した。
そこには会場前の大路はなく、限りない一面の田畑が青々と広がっている。
「こ、ここはどこ?」
「・・壬生、ですが」
目の前の彼の低い穏やかな声が、冬乃を瞠目させた。
(いま、壬生、って言った?)
聞き間違いだよね?
冬乃は恐る恐る自分の身の回りを見渡す。
特に何もない四畳半程の部屋に、先程から冬乃を興味深そうに覗き込んでいる色黒の男と、綺麗な顔をした色白の男が並んで自分の傍に座っている。
(刀・・なんだけど・・・)
目に入った、稽古着を着ていない色白の男のほうの腰に差される脇差と、横の大刀に、冬乃はあんぐりと見入った。
「おい、女」
刀を凝視した冬乃を不審気たっぷりに、色白の男が睨みつけてくる。
(あれ?)
この顔、どこかで・・
「土方さん、この人、頭打って記憶なくしているんじゃないですかね」
え?今、
「土方さんって言いました?!」
「は?」
・・て、たしかに似てる、土方様の写真に!
「おめえ、何者だ?」
ここが本当に壬生で。
時代劇みたいな格好で、
土方と名乗る、平成に遺る“土方歳三”の写真に似てる人がいて。
だとしたら、
この色黒の人は・・・
まさか。
「沖田総司様・・ですか?」
「そうですが。如何してそれを」
答えるよりも先に冬乃の目には涙が溢れて。
男達はそれからしばらく返答を待たなければならなかった。 「どうだか」
土方は鼻で笑った。
「私自身まだ信じきれない・・疑うならついてきてくださって構いません、本当にここが私の居た世界じゃないのか自分の目で確かめたいんです、外を歩かせてください」
この部屋から見える、一面の田畑は、
東京の大会場にあるはずのない景色。
確かめたい。ここが幕末の壬生だと。
そして、
この方が沖田様だって。
「ますます怪しい。そのまま逃げるようなら斬り捨てるからな」
土方の言葉に冬乃は、つんと顔を背けた。
「どうぞ。どうせ逃げませんもの」
冬乃は立ち上がった。
「俺がついていきますよ、土方さん」
沖田が同時に、立ち上がる。
(背・・高い・・)
ふたり立ち上がったそのままに。
近距離で冬乃を促すように見やる沖田の視線に、冬乃の心臓は激しく鳴り出して。
冬乃は慌てて沖田の前をすり抜けるようにして部屋の外へと踏み出すと、ひとつ大きく息を吸った。
草の匂いが、冬乃の肺を満たしていった。