パーン!
「面あり!!」
弾かれたように勢いよく上がった赤旗が、冬乃の視界の端に映り、冬乃は湧き起こる歓声のなか竹刀を引いた。
”女子個人戦の部、Adrian Cheng 全日本二年連続優勝”
この広い大会場において、冬乃の名とその肩書きを知らない者はいない。
そして今回、
「やったあ冬乃!!三年連続優勝!すごすぎ!!」
応援に駆けつけていた千秋が抱きついた。
「行ってきな」
真弓が表彰台を指して、冬乃の肩を叩いた。
盛大な拍手の波にひかれるように、冬乃はトロフィを抱えて台をゆっくりと降りてゆく。
───初めて竹刀を握った幼い日のことを思い出していた。
(あの頃は、まだ信じてたんだよね・・)
いつか彼に逢えることを。本気で。
その時のために、始めた剣道。
それから九年間、冬乃は着実に上達した。
上達とともに、冬乃は大人になってゆき、現実を知った。
所詮叶わぬ願い。
想いは、だが、憧憬から恋へと。つのるばかりだった。
「これで閉会式を終了します。一同、礼」
一瞬のち、会場内は俄かに湧いた。 「冬乃!!」
千秋と真弓が駆け寄る。そのなかに母と義父の姿は勿論、無い。
「改めておめでと!!」
今いちばん逢いたい人も、勿論いるわけがなく。
「・・逢いたい」
「イタイって、どっか打ったの?!」
周りが騒がしいせいでよく聞き取れなかった千秋が、驚いて冬乃の肩を掴んだ。
「え?」
当惑した面持ちで覗き込む千秋と真弓を、ふと冬乃は、我に返って見つめ、
「うん、・・」
(そういえば、確かに)
「痛い・・」
「どこ?!」
冬乃は首を振ると押し黙った。
(なんだろう、この痛み・・)
「冬乃、マジ大丈夫なの?」
再び首を振る。
「誰か呼ぶ?」
「頭が・・・」
「頭?どのへん?!」
真弓が瞬時に反応して、冬乃の頭に手をやった。
「何かに引っぱられてるような、カンジなんだけど、」
(ぼうっとする・・)
「引っぱられてる?」
千秋と真弓は顔を見合わせた。
「医務室に行こう。歩ける?」
「うん、・・」
(よく前が見えない・・・これは何?・・
・・・霧?)
「冬乃?冬乃、大丈夫?!」
「冬乃!!」
遠くで、千秋たちの叫ぶ声が聞こえる。
薄れてゆく意識のなかで、その声もやがて深い霧の壁に徐々に閉ざされていった。
「・・何も持ってませんでしたよ」
(─────畳のにおい)
その独特な香に、冬乃は、すん、と小鼻を動かした。
(ここは・・)
「と、気がついたようですよ」
ゆっくりと目を開けた冬乃を驚くほど間近で、色黒の顔がのぞきこんでいる。
(きれいな瞳・・・)
冬乃は幻でも見るようにぼんやりと眺めながら、
ふと彼の服装に目がいった。
自分と同じく稽古着らしき服を着ているところをみると、会場内の付属部屋がどこか・・。
そういえばもう痛みも、変な霧もない。
ふらり、と身を起した冬乃は。だが開け放たれた障子の向こうを、思わず凝視した。
そこには会場前の大路はなく、限りない一面の田畑が青々と広がっている。
「こ、ここはどこ?」
「・・壬生、ですが」
目の前の彼の低い穏やかな声が、冬乃を瞠目させた。
(いま、壬生、って言った?)
聞き間違いだよね?
冬乃は恐る恐る自分の身の回りを見渡す。
特に何もない四畳半程の部屋に、先程から冬乃を興味深そうに覗き込んでいる色黒の男と、綺麗な顔をした色白の男が並んで自分の傍に座っている。
(刀・・なんだけど・・・)
目に入った、稽古着を着ていない色白の男のほうの腰に差される脇差と、横の大刀に、冬乃はあんぐりと見入った。
「おい、女」
刀を凝視した冬乃を不審気たっぷりに、色白の男が睨みつけてくる。
(あれ?)
この顔、どこかで・・
「土方さん、この人、頭打って記憶なくしているんじゃないですかね」
え?今、
「土方さんって言いました?!」
「は?」
・・て、たしかに似てる、土方様の写真に!
「おめえ、何者だ?」
ここが本当に壬生で。
時代劇みたいな格好で、
土方と名乗る、平成に遺る“土方歳三”の写真に似てる人がいて。
だとしたら、
この色黒の人は・・・
まさか。
「沖田総司様・・ですか?」
「そうですが。如何してそれを」
答えるよりも先に冬乃の目には涙が溢れて。
男達はそれからしばらく返答を待たなければならなかった。 「どうだか」
土方は鼻で笑った。
「私自身まだ信じきれない・・疑うならついてきてくださって構いません、本当にここが私の居た世界じゃないのか自分の目で確かめたいんです、外を歩かせてください」
この部屋から見える、一面の田畑は、
東京の大会場にあるはずのない景色。
確かめたい。ここが幕末の壬生だと。
そして、
この方が沖田様だって。
「ますます怪しい。そのまま逃げるようなら斬り捨てるからな」
土方の言葉に冬乃は、つんと顔を背けた。
「どうぞ。どうせ逃げませんもの」
冬乃は立ち上がった。
「俺がついていきますよ、土方さん」
沖田が同時に、立ち上がる。
(背・・高い・・)
ふたり立ち上がったそのままに。
近距離で冬乃を促すように見やる沖田の視線に、冬乃の心臓は激しく鳴り出して。
冬乃は慌てて沖田の前をすり抜けるようにして部屋の外へと踏み出すと、ひとつ大きく息を吸った。
草の匂いが、冬乃の肺を満たしていった。
それは思っていたよりも根深いものだったのだと、大人になった今、思い知る。
「自分の価値観を変えることは、難しいことだってわかってるよ。でも、皆が皆、結婚して不幸になっているわけじゃないだろ」
甲斐は、私を諭すように言葉を紡いでいく。
「現に青柳なんて、誰がどう見ても幸せそうじゃん。夫婦仲も良いし、結婚しなければ良かったなんて愚痴は一度も聞いたことないだろ?」
「……結婚して、stock trading singapore ちゃんと幸せになってる夫婦が沢山いることは私もわかってるよ」
賑わう街の中で、すれ違う見知らぬ夫婦は皆幸せそうに笑っている。
羨ましいと思う反面、自分には無理だと最初から諦めてしまうのだ。
それはネガティブな性格のせいではない。
きっと本能で悟ってしまっているのだ。
恋愛は出来ても、結婚には向いていないと。
「同じマンションの下の階に住んでる夫婦も、いつも週末は二人揃って出掛けてるし」
「だったら、七瀬だって……」
「他の夫婦が幸せなんだから、自分だって幸せになれるとか、そんな簡単なことじゃないの。……仲の良い両親の元で育った甲斐にとっては簡単なことかもしれないけど、私は違うから」
こんな言い方したくなかった。
こんなことを言いたいわけじゃなかった。
私はただ、甲斐と二人の時間を過ごしたかっただけなのに。
……頭が、割れそうなくらい激しく痛み出す。嫌な沈黙が二人の間を流れる。
きっと普段は私を見放すようなことなんてしない甲斐も、さすがに呆れてしまったに違いない。
「……嫌な言い方して、ごめんね」
謝ってはみたものの、甲斐の顔を直視することは出来ずに目を逸らした。
「いや……俺の方こそ、ごめん」
「甲斐が謝ることじゃ……」
「でも俺は、別にお前に結婚願望を持ってほしくて口を出したわけじゃないから」
甲斐の指先が、私の前髪に触れた。
「ただ俺は……お前が苦しそうに見えたから」
「え……」
「結婚には向いていないって言うお前の顔が、凄く苦しくて寂しそうに見えたんだよ」
「……」
知らない内に、私は苦しんでいたのだろうか。
本当は、いつか自分も結婚をして幸せな家庭を築きたいと願っている。
でも、その理想に自分の気持ちが追い付いていない。
なぜ、甲斐にはわかるのだろう。
私自身でさえ、気付けていないのに。
自然と涙が込み上げ、鼻の奥がツンと痛くなる。
布団で顔を隠して必死に涙を堪えていると、甲斐の声のトーンが少し変わった。
「そういえば、例の男にこの間会ったよ」
「例の男……?」
「久我匠」
「……」
甲斐が久我さんに会ったと聞き、私の思考は混乱に陥った。「久我さんに会ったの……?どうして?ていうか、どこで?」
堪えていた涙は、いつの間にか消え去っていた。
「まぁ、ちょっと……偶然。あの人、絶対モテるだろうな」
「……だよね」
「女からだけじゃなくて。仕事も出来そうだし、いちいち余裕があるし、多分同性からも慕われてる人だと思った」
甲斐は、基本的に人のことを悪く言わない。
他人の短所に目を向けるのではなく、長所を瞬時に見つけることが出来る人だ。
だからこそ、初対面の人とも親しくなれるのだろう。
どこでどんなシチュエーションで会ったのか気になるけれど、甲斐は詳しく話してくれなかった。
「多分いい人だろうから、あの人はお前の元彼みたいな裏切りはしないと思うよ」
「……うん」
甲斐は、さりげなく私に久我さんを勧めているつもりなのだろう。
甲斐にとって私は、仲の良い女友達でしかない。
一度身体を重ねた関係でも、結局関係の本質は変わらないのだと思い知らされた。
これ以上、久我さんを勧めるような言葉は聞きたくない。
そう思い、続きの言葉を阻止しようとしたときだった。
「でも、俺は嫌」
「え……」
「七瀬のこと、あの人に渡したくない」
今度はちゃんと、視線を合わせた。
甲斐の瞳が、不安げに揺れている気がした。ゆっくりと甲斐の顔が近付く。
私と甲斐の気持ちは、同じなのかもしれない。
私はキスを受け入れるために目を閉じた。
そのとき、一筋の涙が私の頬を伝った。
唇が触れる寸前で、甲斐は私が涙を流していることに気付いた。
「七瀬……」
「あ……ごめん、何でだろ……今泣くとか、おかしいよね。熱のせいで情緒不安定になってるのかな」
私は慌てて涙を拭ってみせた。
するとそこで部屋の扉がドンドンとノックされ、勢いよく開いたのだ。
「甲斐!お前、さっきからスマホ鳴ってるぞ」
ズカズカと部屋に入ってきた青柳に泣き顔を見られると思ったのも一瞬で、瞬時に甲斐が私の顔を布団で隠してくれたため、青柳には泣いていることを知られずに済んだ。
「あれ、七瀬どうした?やっぱ食べ過ぎで具合悪いとか?」
「七瀬は少し休むって。とりあえず俺らは部屋に戻ろう」
甲斐は私の頭を優しく撫でてから、立ち上がった。
「今は何も考えずにゆっくり休んで。おやすみ」
私は甲斐の優しさに甘え、小さく頷いた。
「電話の着信相手、高橋真白って名前出てたぞ。確かあの元カノだよな?」
二人が部屋を出て行く直前、青柳が甲斐に発した言葉が変に頭に残ってしまった。
牙蔵は籠に向かって一歩ずつゆっくりゆっくり近づく。
信継と詩はもういない。
その気配は大通りに戻っている。
籠の前で立ち止まると、牙蔵は御簾を刀でスッと持ち上げる。
「…ひっ…」
中では若い姫が震えていた。
「…」
牙蔵はニヤリと笑って見せる。
「…二条の香姫」
「…っ」
美しく気品のある二条家の姫君が、期指按金 香港今や味方を全て失って、自分の正体もバレ、為すすべもなく震えている。
牙蔵はそのまま御簾を刀でグイっと引きちぎった。
「…っ」
香は、ぶるぶると震えて、身を縮こまらせている。
「…高島の女に手を出す意味」
牙蔵が低く言うたびに、香はビクビクと震えている。
「…それがどういうことか、教えてやろうか」
一瞬見た。
牙蔵と目が合った香は、そのまま気絶したかった。
人間がーーこんなに冷たい目をしているものか。
鬼ーーこの美しい男は鬼だ。
敵に回してはいけない、この世のものではない、恐ろしい鬼だ。
もう、…終わりだ。
きっとここでーー殺されてしまう…。
父母にはもちろん、鷲尾にすら、行先を告げずーー二条の手練れの忍から紹介された忍集団に任務を依頼していた。
この目で、あの女の苦しむ姿を見るために、のこのことこんな場所にまでーー
香は諦めたように茫然とする。
その頬は涙で濡れている。
「…お前はどうしたい?」
牙蔵は冷たく香を見下ろす。
「まだ、桜を苦しめたいのか?」
香はブンブンと首を振った。
「…申し訳…なかった…
もう、二度とこんなことはーー」
「…そう。
それならお前のは無事だ」
心から後悔し、落胆した姿に、牙蔵は小さく笑って、刀を納めた。
香はホッと息をつく。
冬なのに、冷や汗が背筋を伝っていた。
「…あとは」
「はっ…かたじけのうございます…」
香が驚きに目を少し開くと、籠の中を鷲尾が覗き込んだ。
「…」
鷲尾は怒っていた。
香は気まずいながらも、鷲尾に手を伸ばす。
「鷲尾…来てくれていたのか」
鷲尾は伸ばされた香の手を無視する。
「姫様…
二条の忍が直接動かなかったのはなぜかおわかりですか」
「…」
「私も聞くまでは知りませんでした。
高島の忍には到底かなわないからです…」
「…っ」
「国と国との戦に発展してもおかしくないことをーーあなたはなさったのです」
「…」
「まさか姫が、私欲のためにーー無力な…罪のない人を傷つける指示をするとは」
「…す…すまぬ…鷲尾」
香の目からはとめどなく涙が溢れている。
「…姫。これはあなたのためです。
籠から出てください」
一瞬、鷲尾が辛そうな顔をした。
香は、カラダになかなか力が入らず、それでもよろよろと籠から出る。
鷲尾の腕が、香を支えた。
「…あ…あ…」
嘘。
そんな…
まさかーー
香は絶望に目を見開いた。
籠の外ーーそこに立っていたのは、芳輝だった。信継は詩を抱いたまま、真白を預けていた宿に向かう。
詩を大事そうに抱えたまま真白に乗り、温泉宿へ向かった。
「…」
詩は何も言わず、信継の胸にしがみついている。
「…」
信継は厳しい顔でーー前を見つめた。
「…桜。
高島のせいで、辛い目に合わせてすまない」
「…」
詩はただ黙って信継の胸の中にすっぽり包まれている。
「…桜を手放せない以上、必ず守る。
だからもうーー俺から離れないでくれ」
「…」
「…牙蔵達がいて…良かった…」
苦く吐き出すように、信継は言った。
店でーー詩を見失った時、信継は血の気が引いた。
まわりの女たちに詩が小さい子と出たと聞いて、必死に探した。
自分ならば、どんなことでも受け入れる覚悟がある。
生まれた時から、高島の嫡男だからだ。
ただーー
こと、詩のことになると、信継は身を切られるより辛い思いだった。
愛する女子を守れずして、自分に何が守れよう。
信継は片腕で詩をまたぐっと抱きしめた。
詩は小さくて
こんなにも小さくてーー
女子なのだ。
自分とは違う。
守ってやりたいと思う。
愛しいと思う。
それなのに。
辛い思いをさせて、衝撃を受けさせて、泣かせた。
「…っ」
信継はギリっと唇を噛むと、真白を駆って先を急ぐのだった。
「桜。着いたぞ」
温泉宿に着くと、迎えが出てくる。
予定よりかなり早く着いた。
こんなことにならなければ、もっと街道沿いを散策する予定だったのだ。
馬から降りる時も、詩は黙ったまま信継にぴとっとくっついて、離れそうもない。
「……」
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
「まあまあ、仲がよろしいことで…」
顔見知りの宿の女将と主人がにこにこと迎える。
信継はほんの少し赤くなって、詩を抱いたまま、また真白を降りた。
「…世話になる」
真白は宿の馬番が丁寧に連れて行った。
信継は詩を抱いたまま、促されるまま宿に入った。
「こちらはそのまま温泉に入れる離れになっております、どうぞごゆっくりなさってくださいませ」
案内された部屋は、例年通り一番格式の高い部屋だった。
温泉特有の熱気と硫黄の匂いが漂う。
「ああ」
宿の女将が頭を下げ部屋を出る。
信継は部屋について、詩を下ろそうとした。
ーーと
詩は離そうとするとまたぎゅっと信継にしがみつく。
「桜。
血糊が…。着替えて早くカラダを洗わないと」
詩は小さく首を振る。
「…っは…っ」
信継はカッと照れて赤くなった。
詩の、こんな子どものような仕草を見るのは信継は初めてだった。
恋焦がれ、手に入れたいとはっきり告げた。
だが、好きな気持ちだけで無理矢理我が物にするのは止めた。
詩はまだ14歳前だ。
早すぎるということはないもののーーそれだけ信継は大事にしたかった。
詩も。詩の気持ちも。
籠と馬とが、来た時と同じ隊列を作る。
鷲尾はゆっくり馬を進めながら、多賀家の屋敷を振り返った。
それからまたーー前を見つめた。
「何でも高島の嫡男の信継様が寵姫と宇都山の先にお出掛けになるらしいよ」
「へえーこの年の瀬にねえ」
「蠟梅を取りに行くんだと。町で噂になってる」
「それにしても初心だという噂が天下にまで轟くあの信継様に寵姫がねえ」
「はは…八みたいな女嫌いではなかったわけだな」
「…」
高島の裏庭でーー気分よく親子遊 庭を散策していた芳輝は、加代と弥七と八の会話を聞いてしまう。
まだ3人は芳輝の存在に気づいていない。
弥七は声を落とした。
「その”寵姫”とやらがーーど~も桜みたいなんだよなあ」
「えっ…」
「…」
加代が持っていた洗濯物を落とし、八は銀を洗っていた手ぬぐいを落とした。
「嘘だろう、弥七」
「特徴が似てんだよ。
あの時も、たった1日ここ多賀にいてーー攫われただろ。
桜って、やっぱり訳ありなのかな」
「…」
八は銀を見つめる。
「芳輝様の耳には入れないでおきなよ、あの騒ぎの時大変だったろ。
芳輝様はきっと桜をーー」
加代が声を潜める。
「…」
芳輝はそっと踵を返した。
ーーそう、桜がーー
信継殿のーー
寵…姫?
腹の底がカッと熱くなる。
まさか。
まさかだ。だが…
「…」
芳輝は何やら考え事をしながら、そっと自室に戻ったのだった。「寒くはないか」
密着した背中。温かい信継。
すぐ後ろから聞こえるいい声ーー父に似たその声に、詩の心の臓は何故かうるさくなる。
「はい…」
真新しい母衣にすっぽり身を包み、その後ろからは大柄な信継に囲うように守られーー詩は寒さなど感じることはなかった。
「…疲れていないか」
「はい、大丈夫です…」
年の瀬で早朝から活気のある城下を駆けてーー信継と詩は宇都山のふもとに来ていた。
城下では、年末だからか朝からたくさんの町人が道に出ており、信継と詩を好意的な笑顔で見ていた。
まるで、見送りでもしてくれたかのように。
「宇都山の向こうの街道沿いに温泉宿がある。
今日は街道沿いを一緒に散策しよう。
今宵はその温泉宿に泊まって、明日早朝蠟梅を取って高島に戻ろうと思っている」
真白をゆっくりと歩かせながら、信継は呟いた。
すぐ耳の後ろ、上方から聞こえる声。
耳に忍び込むような低い声に、詩は落ち着かない気持ちになる。
何故だろう?安心なのに、ドキドキもする。
声がすごく、好きな声だから?
そんな不思議な気持ちにーー
「桜?」
「…っはい」
「思うことがあるなら遠慮なく言ってくれ」
「…」
心配が滲む声色。
考え事をしていてすぐに返事をしなかったから信継に心配をかけたのだと詩は思い至る。
詩は慌てて後ろを振り仰ぐ。
「…!」
と。
信継が前かがみになっていたため、思ったよりお互いの顔が近く、ドクンと心臓が跳ねた。
「…っ」
真っ赤になった信継が咄嗟に上体と顔をのけ反らせる。
「…!」
バランスが悪くなり、真白がいななき、前足を少し上げた。
「…っ!」
「…どうー…どうー…」
信継は詩をグッと抱き込むように抱きしめ、手綱を繰る。
真白はすぐに穏やかに立ち止まった。
「すまん、大丈夫か」
信継はひらりと真白を降り、あっという間にさっと詩を抱き上げーーそっと地面に降ろす。
「…っ」
まるで子どもみたいに、脇に手を差し込まれて、軽々と下ろされる。
「桜?」
大柄な信継が詩を心配そうに見ている。
詩はチラと信継を見上げ、赤くなって首を小さく振った。
「痛いところがあるのか」
「…いえ、大丈夫です…」
「…」
信継は少し困ったような顔で詩を見下ろしている。
「…」
どこかぎこちない雰囲気に、詩はいたたまれないような気持ちになる。
「…休憩しよう」
信継は真白の背をポンポンと叩くと、詩を促して歩き始める。
詩は信継の後ろをついて行った。
風は止み、高くなってきた陽が、穏やかな日差しと温もりを届けてくれる。
真白はゆっくりと歩き、うすく積もった雪の中に鼻を突っ込んでいる。
少し歩くと、道沿いに茶屋がぽつんとあった。
信継が振り返る。
「あそこで休もう」
「はい」
ニコッと笑う信継。
太陽みたいなーー笑顔。
詩は思わず見とれてしまって、それから目を伏せた。
明るくて、まっすぐでーー
「ハンベエはこの私なんか赤子扱いするくらい強いのよ。でも貴方はその私に手も足も出ないザマじゃないの。ハンベエをどうしても赦せないと言うなら、十年も苦行を重ねて出直して来いって話よ。元同じ十二神将の仲間として言わせてちょうだい。命はね、粗末にするものじゃないわ。ヤケになっても何も良い事無いのよ。それに王女様もハンベエもみんな本当は優しい人よ。もっと物事を良く見て、良く考えた上で行動するべきだと思うの。折角生き残ったのだから。」
そう言うと跳び下がって元の位置に戻っていた。
チャードは崩れるように呆然と尻餅を突き、それから悔しそうに地べたを叩いた。か弱い小娘にしか見えないハイジラにやり込められて、自尊心もズタズタであろうと思うと気の毒にも思えて来る。
その時にはハイジラはチャードに背を向け、スタスタとハンベエとロキの所に戻っていた。
一部始終を見、ハイジラの言葉を全て聞いていたハンベエとロキは唖然としてハイジラの顔を姿を見直していたが、ハイジラが促すような仕草をしたので、一緒に『キチン亭』に向かって歩き出した。押っ魂消たのであろう。二人とも宿に着くまで、何一つ言えずにいた。 『キチン亭』に着いた後、ハイジラは三人で食卓を囲み、ハンベエがロキに話して聞かすキューテンモルガンの一件に朗らかな笑い声を上げ、その後ロキが話すザックやモンタ達孤児連とのイキサツを興味深そうに聞き入っていた。
そうして、二時間以上を二人と過ごし、足取り軽く王女の下に帰って行った。
「本当に今日ほど驚いた事は無い。」
ハイジラが去った後、思わずハンベエとロキは異口同音に言った。こんな時にも息の揃った二人ではあった。
その後、チャードの姿をゲッソリナで見掛ける事は無かった。 『御前会議』の開催までは更に十日を要した。タゴロロームからヘルデンとボルミスを呼び出すのに急使を走らせ、即刻ゲッソリナに急行させてもそれだけの時日を要するのだ。この二人が到着して漸く王女軍の主立った領袖の勢揃いとなった。
事前にモルフィネスから王位継承後の家臣団の配置が王女エレナの内意として領袖達に伝えられた。その配置にハンベエは入っていない。ハンベエはイザベラ一味と共に去る予定なのだ。
ドルバスやヘルデンがハンベエが王女エレナの下を去る事に難色を示した。何せ、ハンベエなればこそと特に肩入れして命を張って来た思いの強い人物達だった。そのハンベエが途中下車のように王女軍を離れ、自分だけ別の戦に向かおうとするのが置いてけぼりと喰らったように感じるものが有るらしく、自分等も付いて行くと言い張ったのだ。
この説得にはハンベエ自身が当たらなければならなかった。
分けてもドルバスの説得はハンベエにとっても相当骨の折れる作業であった。
「この俺は、ハンベエの片腕としてどこまで付いて行く覚悟で今まで行動を共にして来たのであって、別に地位や褒美が欲しくてやって来たんじゃない。ハンベエという男を後押しするのが一番の目的なのだ。」
と今後も行動を共にする事をかなり強硬に主張した。
「ふう、貴公には何時何時も苦労ばかり押し付けて申し訳なく思っている。しかしよう、ドルバス。タゴロロームに始まって、兵士達の不満を汲み軍を統率して来たのは貴公じゃないか。戦の無くなったこの国で俺の出番はもう無い。と言って、兵士達をほったらかしには出来ない。貴公以外の誰が兵士達を押さえ込めるんだよ。」
「ハンベエが残るなら、俺も残る。ハンベエの下でなら、兵士の面倒も見ようぞ。それだけじゃ。姫君もハンベエを粗略にはせぬはずだろう。」
「そりゃあ、王女が俺を粗略にする事は無いだろうさ。